【総本社】伏見稲荷大社
【御祭神】宇迦之御魂神 など
【御利益】五穀豊穣、産業、商売繁盛、家内安全、芸能
【神使】狐
「お稲荷さん」でお馴染みの稲荷神社。全国では2,900社余りと言われています。この数だけでは最大派閥!八幡様には及ばないのですが、大抵の神社にある境内社としてのお社まで含めると32,000社と言われている一大勢力になります。その他にも社屋内や屋敷内など特定の方だけがお参りできるお社もあるのですから、実数は更に多いのでしょう。
お稲荷さんと言えば、かならず狐が思い浮かびますが、狐は神使で実際の御祭神は稲荷大明神「宇迦之御魂」です。この神様は古事記での書き方、日本書紀では「倉稲魂命」と書かれています。どちらも「ウカノミタマ」で「ウカ」が食物を指すとされています。そう、そもそも五穀豊穣がお稲荷さんの得手な訳です。
また、宇迦之御魂以外にも豊受稲荷神社のように豊受大神が御祭神とされたり、保食神、大宣都比売神、若宇迦売神、御饌津神が当たるなどのケースもありますが、いずれも「食物神」という役割から稲荷信仰の対象とされてのではないでしょうか?
一方、このブログでも悩んでエントリーを書いた「豊川稲荷明神」の存在があります。豊川稲荷といえば荼枳尼天を祀る「お寺」です。この荼吉尼天、一説としてインドでは人肉を食らう魔女がヒンドゥー教に取り入れられた後、神格を得ています。更にインド仏教の中で大黒天に調伏されて死にゆく人を加護し、死んだ後に心臓を食らうという役割を得ます。
空海は密教の中で日本に荼枳尼を紹介した人と言う一面があります。ここから荼枳尼が徐々に変質していくのです。
紹介された当初は閻魔天の眷属とされ、手には屍肉をぶら下げた姿があったのですが、その屍肉は時代と共に薬袋へと変わります。また、当初は半裸だったものが狐にまたがる女天へと変わるのです。
ここでお気づきでしょう。これが「お稲荷さん⇔狐」の起源だったりするのです。
この時代まで荼枳尼天は「荼枳尼」と呼ばれていました。しかし、ここで「荼枳尼天」へと”昇格”します。また、別名で辰狐王菩薩、貴狐天皇と狐にちなんだ尊称も付けられるようになってきます。
このように「荼枳尼→狐」の関係性が、今も伝わる神使としての狐の原風景とも言われますが、諸説があります。例えば、稲荷神がミケツ(三狐・御食津)と呼ばれる事もあります。このミケツ、宇迦之御魂の別名である御饌津神(みけつのかみ)に繋がりますが、じつは狐の古い呼び方は「ケツ」だったのです。このため
御饌津神→みけつのかみ→三狐神
と当て字が生まれてきたこともあります。
そもそもの稲荷信仰では「蛇」が信仰の対象とされていたようなのですが、これが狐へと変化を起こしてもいます。が、この2種の動物の共通点にお気づきでしょうか?見た目も何も違いますが、両方共に野に住んでネズミを捕食する動物なのですね。つまり「農作物を護る存在」としての象徴なわけです。
また、狐には蛇にはない五穀豊穣の象徴的な特徴があります。それが尻尾です。あのフサフサとして金色の尻尾が豊かに実った稲穂に見える。という考え方がお稲荷さんの神使にしたという説もあります。
こうして五穀豊穣の神様として定着すると、そこから経済…商売へと発展解釈がなされるのですね。これが大凡、江戸時代になってからと言われています。と、同時に「お稲荷さん=狐」という…稲荷大明神には少し寂しい誤解も拡がったりしています。
正一位稲荷大明神
さて、お稲荷さんのお宮には狐の他にいろいろな特徴がありますが、まずは、その一つ。「正一位」の幟旗です。
神様にも位階があるのはご存知でしょうか?人に与えられた位階と同じように天皇によって授けられる位なのですが、神様には神位とも言います。ですから、正一位となると「最高位」ということになります(天照大御神など、階位の対象外とされる「特別」な神様もいらっしゃいます)。
お稲荷さんが最初から正一位だったわけではありません。まず天長4年(827年)、淳和天皇から従五位下を授かってから出世して天慶5年(942年)に正一位を授けられました。
ただし、本来、神位は特定の神社の御祭神に授けられるものです。ところが、大抵のお稲荷さんには「正一位稲荷大明神」の幟旗が建っています。「これ?ルール違反では?」と思われるかもしれません。いや、同じ疑問を江戸時代の人ももったようです。伏見稲荷大社のサイトで、こんな紹介があります。
江戸時代の寛政4年(1792)2月、奉行所より「正一位稲荷大明神神体勧請は、本社以外の他所の者が行ってもさしつかえはありますまいか。それというのもこのたび大北山百姓・善四郎という者の藪に、きつねの窟ができているのを見つけて、土御門家弟子・今村頼母という者が、“正一位豊浦稲荷大明神”を勧請して遣わしたということなので、不審に思ってまず本社に様子をうかがう」と当社祠官宛に連絡がありました。
もう少し普通に書かせて貰うと
大北山(京都府?)のお百姓さんが持つ藪の中で狐が穴を掘ったら土御門を名乗る人が「正一位豊浦稲荷大明神」を勧進したんだが…でも、正一位って本社以外が勧進しちゃまずくない?と奉行所が伏見稲荷に確認を行ったということなわけですね。
伏見稲荷大社は、検討を行います。
当時の正官五人を含む祠官全員が「一社総集合」を開き、次のような回答書を書き、翌日役所に持参、以降この見解が正当なものとして広く取りあげられるところとなりました。 「稲荷大明神正一位神体勧請の儀は(中略)後鳥羽院建久5年(1194)12月2日行幸のみぎり、『当社は五穀衣食の守護神にて、諸人に尊信せしむべきであって、信心の輩がその所々に鎮祭しているのは、当社の分神である。よって本社勧請の神体には“正一位”の神階を書加えて授くべき』旨勅許くだされましたので、その時以降社司たちは伝来の修法をもって、勧請相授けたのです。その修法は一子相伝であって、門弟等へ伝授したようなことはかつてなく、そのためみだりに他所より正一位神体勧請があったのでは、当社は甚ださしつかえると共に迷惑至極でございます。」(『稲荷社事実考証記』) 建久5年12月2日の後鳥羽天皇の行幸は、祇園社と併せ行われたもので、記録には「稲荷勧請勅許云々」は見出せないのですが、当社祠官の間では、この時に勅許があったという見解が、まさに一子相伝されて来たのです。
本来、神位は天皇に依って行われるのですから、祠官さんが揃って「構いません」とは言えない訳です。そこで畏れ多いこと極まりないのですが、後鳥羽上皇が行幸した時に「伏見稲荷大社が勧請するなら、それは正一位としなさい。だって五穀衣食の守護神なんだから」と言われた旨の見解を出したのです。
つまり、土御門が勧請した稲荷社は不味いし、同様にあちこちで勝手に勧請した稲荷社ができてしまっていた状況を示しているようです。
このような歴史的な経緯から各稲荷神社が「正一位」を名乗っているのです。
鳥居が多い気がする
伏見稲荷大社の鳥居は有名ですが、地域の神社にある境内社でも稲荷神社となると、二の鳥居・三の鳥居と重なっていることが少なくありません。これは「願いが通る」という事から願いが叶った時に奉納する風習が江戸時代から始まったというこだそうです。が、他の神様ではあまり見かけませんよね。もしかすると、これが一種、お稲荷さん独特の風習なのかな?と思います。
境内社の祠を見ても、狐の人形が幾つも飾られたいたりと矢張り、成就した結果として奉納された様子があります。これ、迷信として「お稲荷さんはお参り続けないといけない」とか「御礼しないといけない」と言う考え方に依っている気がしなくもないです。
必要ない!とは言いませんが、祟られるよぉ〜。みたいな恐怖心じゃなく、純粋に御礼としての印としたいものですね。
初午ってなにさ?!
お稲荷さんと狐の関係は書きました。が、毎年、節分の前ぐらいに行われるお稲荷さん独特のお祭りが「初午」です。狐…そして蛇とお稲荷さんの関係は書きましたが、今度は「馬」です。
とは言っても、これ動物の馬ではなく暦としての「午」なのです。
年の最初の「午」の日は、和銅4年(711年)の初午に伏見稲荷大社の御祭神が降りてきたことを記念しています。言わば、設立記念日なのですね。
ということで
仏教系もある「お稲荷さん」ですが、どちらにしても五穀豊穣、繁栄のための守護神であることに変わりありません。境内社なども見逃さずにお参りしたいものですね。
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