負けを乗りこえて軍神に。「諏訪神社」にあやかれ!



【総本社】諏訪大社
【御祭神】建御名方神、八坂刀売神
【御利益】勝運、商売繁盛、縁結び、子孫繁栄
【神使】白蛇

全国で25,000社を数える一大勢力が「諏訪神社」です。言わずと知れた信州、諏訪湖にある諏訪大社を総本社としています。

御祭神の建御名方神は、大国主命の息子神として、また国譲りの伝説で知られている神様です。
伝説では諏訪から出ないことを約束して終わるのですが、現在は広く諏訪信仰の各地拠点として諏訪神社が建立されています。その数、2,600社余り、第6位とも言われる数なのです。

負けた神様なのに?

なぜ、国譲りで負けた側の建御名方神が何故、こんなにも信仰を集めるのでしょうか?
例えば菅原道真公のような祟り神とされるような伝承が見当たれば、理由は簡単なのですが…。
その理由の根底には「大和心」が隠されているように思えるのです。建御名方神と相手方の武甕槌神を国津神と天津神の「軍勢」として考えてみると、天津神側が押している状況なのは明らかです。これに対して最後の切り札になったのが建御名方神だったと思えるのです。
その切り札として期待されながら、結果は敗戦です。そして破れて逃げ落ちた地は、別の神様(ミシャグジ)が治めていたと言われています。
その地にあって敬愛を集めるのですから…。単に判官びいきなだけではなく、寧ろ、その本来の土地ではなくても崇敬を集めるような政がなされたのでは無いかと…そう想像するのです。

だからだと思えるのが、諏訪大社、建御名方神の「軍神」としての性格です(だから勝運が得手なのですが)。本来、軍神は勇ましさの評価と思えるのですが、最初の征夷大将軍、坂上田村麻呂が信仰したのが諏訪大社だったのです。蝦夷征伐に成功した田村麻呂は、京都に凱旋すると尚徳諏訪神社を勧請したのです。

一つの負けで全てを諦めず、その結果から何かを得れば…周りからの尊敬を集めることもできる。
そう建御名方神が教えてくれているような気がしますね。
頑張りましょう。

さて、建御名方神の神使ですが、この調べ方だと中々見つかりません。では諏訪大社ではどうか。そうすると白蛇として説明されているところが多くあります。その時に目にするのが「ミシャグジ(ミシャグチ)神」や「ソソウ神」といった聞きなれないお名前です。
このうちミシャグジ神、言ってみれば各地に伝承があるものの、一説には諏訪土着の神様との考えられています。また、ソソウ神は諏訪の蛇神様と考えられます。この二柱が習合され白蛇へと昇華したと思うのです。
一方で、この様に土着の神様たちがいるなかに建御名方神が敗軍とは言え外部から侵攻してきたのですから、伝説を解きほぐす方々からは諏訪勢と建御名方神勢とで争いがあったのでは?とも見られています。が、その一方で、ミシャグジ・ソソウ神と並んで「モレヤ神」と言う名が出てきます。そしてモレヤ神もミシャグジ・ソソウ神と習合されたと考えれられてもいます。もし、このモレヤ神が今でも生きているとしたら…。

諏訪大社では大祝と神長官と呼ばれる2つの重要な神職あり、大祝は「神氏」と呼ばれる血筋の諏訪氏が、神長官は守矢家によって継承されてきました。神氏の祖先は建御名方神です、また守矢家の祖先はモレヤ神と言われています。歴史の中で両家は時に対立しながらも諏訪信仰を受け継いでくる関係にあったようです。(なんとなくダライ・ラマとパンチェン・ラマの関係を思い浮かべてしまいます。)単に、ミシャグジ神・モレヤ神が侵攻勢力に討ち滅ぼされた側であれば、守矢家が大社の運営を輔弼するような立場にはなり得なかったのではないかと思えます。
また、wikipediaにこんな記述があります。

『諏訪大明神絵詞』などの伝承によれば洩矢神は古来諏訪地方を統べる神であった。しかし建御名方神が諏訪に侵入し争いとなると、洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、建御名方神の持つ藤の枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北した。以後、洩矢神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、その支配下に入ることとなったという。また、その名が残る洩矢神社(長野県岡谷市川岸区橋原)はこの戦いの際の洩矢神の本陣があった場所とされる。

こうしてみると、諏訪の地では負けが負けではなく、次代に繋ぐための儀礼のようにすら思えてきます。この根底には頑固さと寛容さの両立を感じるのです。そして諏訪の地から出ないと言った建御名方神が諏訪信仰として拡がっていった原動力になったのではないでしょうか?





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