【総本社】規定なし。但し「天神信仰発祥の地」として北野天満宮と太宰府天満宮がある
【別名】天満宮、天神社、菅原神社、北野神社など
【御祭神】菅原道真公
【御利益】学業上達、試験合格、芸能、芸術、勝運、縁結び、病気平癒
菅原道真の死後、
延喜 9年 藤原時平 病死(太宰府への左遷の基となった誣言を行ったと言われる)
延喜13年 源光 狩りの最中、泥沼に転落し溺死(失脚の首謀者とされる)
延喜23年 東宮 保明親王 薨去(醍醐天皇の皇子)
延長 3年 皇太孫 慶頼王 卒去(醍醐天皇の孫・保明親王の皇子、時平の外孫)
延長 8年 清涼殿落雷事件
醍醐天皇崩御
と、不幸が相次ぎます。これを道真の祟と考えた朝廷は、一族の流罪を解き、また道真に贈位をします。そして天暦元年(947年)に北野天満宮を建立しています。
この様な過程から、道真を「祟り神」とする考え方があります。こう書くと、何か恐ろしい神様のように見えますが、言わば
有能な人を国家的な犯罪者として重罪に処す →
非業の最期を向かえる →
様々な凶事が起きる →
神として祀る →
国家安寧の神様となる
と言う感じでしょう。その中には、崇道天皇や平将門なども含まれます。
道真の死後、様々な災厄が起きたことは書きましたが、実は誕生から伝説に包まれた人でした。
例えば、菅生神社境内の池に生えた菅の中から子供が現れ、光を放ちながら菅原是善の屋敷に飛んで行くと「そなたを父にしたい」と言った。その子が菅原道真だったとか…。またカッパの親分を殺したとか、あるいは助けられたとか、妖怪に守られたとか。武芸にも秀でていたことが言われています。文武両道の人だったわけです。また、神がかり的に雨乞いに成功するなどの逸話も残っています。
また、いわゆる「英雄色を好む」の言葉の通り、側室や遊女遊びも伝わる一方で、子供は23人以上と言われています。そんな子沢山で更には子煩悩な面が菅家後集から伺えると言います。まるで現実と超現実が一身に集められたような人です。
また、道真の残した「東風()吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」から飛梅伝説が語り継がれ、かつ、天神様には社紋として梅を配した梅紋、梅鉢紋、星梅鉢が使われています。
では、神使が牛になったことにも言われがあるのでしょうか?
実は、物凄くあるようです…
・丑年生まれ(承和12年6月25日)
・元服の夜に見た白牛が角をくじいて死ぬ悪夢を気にして自ら描いた牛の絵に、酒を供えて拝んだ
・寛平5年、癸丑9月、北山で茸狩りの宴を催した時、道真を敬うように小牛が宴席に近寄ってきた事を喜び、自邸に連れ帰って可愛がった
・太宰府左遷の道中、道明寺〜こもやの里付近で時平は笠原宿禰達に道真の命を狙わせた。このピンチを救う様に突然、松原から牛が現れて宿禰の腹を突き刺し窮地を脱した。この牛、実は道真が飼っていた牛だった
・道真は、「都にて流罪極る前夜、不思議に逃げ去って姿を隠し、度々に凶非を告げ、今また此の危難を助けし忠義の牛、筑紫まで伴わん」と言って、牛に乗って太宰府へと向かった
・道真の死後、その遺体は牛に引かれて移動させた。が、その牛が座り込んでしまった場所を墓所とした
また、生身天満宮では、こんな紹介もしています。
他にも農耕の神のご神徳からそのシンボルとする説。菅原道真公薨去後に下された「天満大自在天神」という神号からきているという説。「大自在天」は元々はバラモン教の大本尊で、仏教におけるお姿は、八本の腕と三つの眼を持つ八臂(はっぴ)三眼で、白い牛に跨がるとされているので、そこから結びつけられたようです。また、大宰府へ下られる際、牛に乗られていた。菅原道真公が牛を愛育されていた。刺客から牛が菅原道真公を守ったことがあった。など様々です。
生まれてから死後まで「牛」に囲まれ、牛と愛し愛された関係なのです。また神仏習合の中でバラモン教の自在天まで飛び出して来て牛なのですから、まごうことなき神使なのです。
このように伝説と現実が入り乱れた道真の生涯ですが、その軸として「藤原時平」の存在が気にかかります。藤原時平は陽成天皇を廃帝し光孝天皇を擁立するなど、太政大臣として絶大な権力を誇った藤原基経の長男として生まれます。この時平、若い時代から順調に出世を重ねていき、金銀で飾られた中で内裏で元服を向かえるなど七光も存分に使っています。そして17歳-887年(仁和3年)、阿衡事件がおきます。ざっくり言えば、
宇多天皇即位→基経に関白即位の詔勅を出す→基経、慣例に従い辞退→天皇、橘広相に二度目の詔勅を書くよう命ずる→橘広相「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」と書く→文章博士藤原佐世が「阿衡は位貴くも、職掌なし(地位は高いが職務を持たない)」と基経に告げる
→基経、不貞腐れたように業務放棄
→国政が滞る
→天皇は困り果てて基経に了見するよう求める
→確執は解けず
→左大臣源融に天皇から、阿衡に職務が無いかを調べさせる
→源融、基経にビビって藤原佐世と同じ回答を提示
→天皇、橘広相を罷免し詔勅を取り消す
→天皇、悔しさを日記に書き残す
→基経の気は収まらず、更に橘広相へ追放刑(遠流)を下すよう求める。
恐ろしいまでの執念で橘広相潰しに動く基経です。
で、この結果がどうなるのか?ですが…実は、ここで道真が動くのです。
讃岐守・菅原道真が「これ以上紛争を続けては、藤原氏にとってためにならない」と言う旨の書簡を基経宛に送り、これをもって基経も怒りを納めます。基経激怒の裏には、橘広相の外戚化への懸念や出世への妬みなど諸説ありますが、異様なまでの怒り方です。
しかし、既に文章博士の兼務をしていたとは言え地方役人とも言える道真の書簡…でというのも不思議です…、それだけ幼少期から秀才ぶりを評価されいた道真の実力が発揮されたのでしょう。
ただ、この執念深さが時平にも受け継がれているのです。この阿衡事件によって宇多天皇が基経との間に違和感を持っていたとは言え、醍醐天皇への譲位に際して「時平は功臣の子だが、年若く素行が悪いと聞く、朕はそれを聞き捨てにしていたが、最近は激励して政治を習わせるようにしている。そのために顧問を備えて、よろしく輔導すべきである」と申し送りをしています。帝に上奏されるような素行不良ですから、内容は想像するに余りあるところでしょう。その上に、父譲りの執念深さがあるのです。そして、その矛先が道真に向かうのは宿命だったのではないでしょうか。
wikipediaでは、こう書かれています。
昌泰2年(899年)時平は左大臣に任ぜられるが、同時に道真も右大臣となり太政官の首班に並んだ。 学者の道真と貴公子の時平は気が合わなかった。時平は情に任せて裁決に誤りが多く、その都度に道真が異を唱えて、対立するようになる。道真は後援者である宇多法皇をしきりに訪ねて政務を相談し、法皇は天皇に道真に政務を委ねるよう相談した。これを知った時平の心中は穏やかではなかった。一方、次の醍醐天皇と時平とは信頼関係が構築されており、宇多法皇と道真、醍醐天皇と時平という二派が形成されたともいわれる。
上皇と天皇、道真と時平。学者と不良貴公子。何かと比較されつつ家柄や父の御威光以外に勝つすべの無い時平が道真潰しに動きます。
延喜元年(901年)時平は大納言・源光と謀り、道真を讒言。醍醐天皇はこれを信じて道真を大宰員外帥に左遷する。
このきっかけとして醍醐天皇を蔑ろに院政を執ろうとする上皇の存在がある中で、道真の娘婿にあたる斉世親王が皇太弟に着位すると言う噂が流れるのです。そして、一気に昌泰の変が起きます。その悲劇の主人公が道真だったのです。
道真は大宰員外帥に左遷され、長男の高視を初め、子供4人が流刑となります。一族が都から追放されたも同然でしょう。そして、道真自身が著した『菅家後集』では、太宰府への道中、反道真派から、落し穴などの罠、刺客からの襲撃、傷ついた駄馬や半壊した船の利用など嫌がらせどころか命を狙われる状況が起きていたのです。また、まじない・呪いが生きていた時代にあって左遷の日には、藤原時平・源光・藤原定国・藤原菅根は陰陽寮の官人を集めて道真だけではなく子孫の繁栄ができないよう呪詛をかけます。言ってみれば、現実にもそして呪いの世界でも道真の命運を絶とうとした訳です。
そんな中でも呪詛の心得があった道真は生き続けます。そして太宰府に到着するのですが、そこでも左遷どころか給与も住居も阿衡どころか本当に仕事も与えられず、そして時平の刺客が常に身辺をうろつく状態でした。
そして道真が死にます。その後、流刑にあった子どもたちは赦免されるのですが、死の直後、長男である高視にその死を伝えようとした娘、紅姫はその道中、時平の刺客により惨殺されていたのでした…。
単に菅原道真=祟り神。としてのストーリーを見ていると、時に道真の逆恨みにすら思えるかも知れませんが、実は累代にも及ぶような呪詛の中で次代のために怒りを表した「天神」の姿が見えてこないでしょうか?
最後に「天神」ですが、そもそもは「雷神」をさす概念だったそうです。これが清涼殿落雷事件で道真へと転化していた訳ですね…。
雷の音を聞いたら、子煩悩な道真が子どもたちを守ろうと懸命に奮闘する様子を想像してみては如何でしょうか?
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